
福島・沼尻高原に佇む沼尻高原ロッジは、登山と温泉体験を軸にした“エクストリーム温泉”という独自のコンセプトでリニューアルオープンした宿泊施設です。
元々は女性として世界で初めてエベレスト登頂に成功した登山家・田部井淳子氏が生涯愛した山小屋でした。
本インタビューでは、休業していたロッジを引き継ぐに至った背景から、自然と共生する空間設計、地域食材へのこだわり、そしてこの場所に込められた観光の未来像までを伺いました。

福島・磐梯朝日国立公園の山あいに位置する山岳ロッジ。
強酸性の硫黄泉と特厳選食材による創作懐石とともに、自然に溶け込むような深い癒しを体感できます。
登山が導いた再生の場所としての決断と、沼尻高原ロッジのはじまり

ーー沼尻高原ロッジを引き継ぐことになった経緯を教えてください。
渡邉社長:もともと登山をずっと続けてきた中で、同郷の登山家として田部井淳子さんの存在をよく聞いていました。その田部井さんが関わっていたロッジが長く休業しているという話を聞き、田部井家の方からも「一度相談に乗ってほしい」とお話をいただいたのがきっかけです。
ーー引き継ぐ決断に迷いはありましたか。
渡邉社長:正直なところ、その時は自分自身も別の宿の立て直しでかなり厳しい状況でした。ただ、それでもこの場所をそのまま終わらせてしまうのは違うと感じましたし、田部井さんがここで積み重ねてきた時間を福島に残す意味があると思い、復活に関わる決断をしました。

ーーこの場所を“宿”としてではなく別の意味でも捉えていたのでしょうか。
渡邉社長:そうですね。単なる営業再開というより、田部井さんがこの土地で行ってきた活動や時間そのものを残す場所にできるのではないかという思いがありました。関係者の方々の協力もあって、再開に至っています。
自然の中で“人間のリズム”を取り戻す空間設計
ーーリニューアルではどのようなコンセプトを大切にしましたか。
渡邉社長:ここは本当に自然の中にある場所なので、まず人間本来のリズムに戻ることを大切にしています。朝は自然の光で目覚めて、暗くなったら眠る。その当たり前の感覚を取り戻してもらうことを意識しました。

ーー具体的に、空間としてはどのような工夫をしていますか。
渡邉社長:テレビを置かない、時計を置かないという設計にしています。情報に追われる時間ではなく、時間から解放される感覚を持ってもらいたいからです。カーテンも遮光にはせず、朝の光が自然に入るようにしています。
“土地そのものを食べる”という思想としての食の設計

ーー食材の選び方にはどのような考え方がありますか。
渡邉社長:できるだけ半径16km以内の食材を使うようにしています。その土地の水で育ったものは、その土地の体に一番合うという考え方です。
ーーなぜそこまで地域に限定する必要があったのでしょうか。
渡邉社長:今の食はどうしても加工食品や遠方の食材が多くなっていますが、ここでは“土地そのものを食べる”という体験にしたいと思ったからです。農家さんや卵屋さんなど、考え方に共感してくださる方々と一緒に食をつくっています。

食と温泉がつくる“回復としての滞在体験”
ーーこのロッジでの時間をどのようなものとして設計していますか。
渡邉社長:温泉に入り、体に負担の少ない食事をとり、そのまま日常に戻っていく。その中で少しでも体や気持ちが軽くなるような時間になればいいと思っています。

ーーいわゆる“整う”というよりは違うニュアンスでしょうか。
渡邉社長:そうですね。整えるというより、“回復するための場所”という感覚に近いです。ここでの時間が日常に戻ったときのエネルギーにつながればいいと思っています。
沼尻温泉という土地が持つ“生きた源泉”

ーーこの土地の温泉にはどのような特徴がありますか。
渡邉社長:沼尻温泉の源泉は非常に酸性が強く、その水が猪苗代湖の水質をきれいにしているとも言われています。また、7kmほど引湯していて、日本でも有数の湯量を持つ地域です。
ーー特徴として一番大きい点はどこでしょうか。
渡邉社長:常に新しいお湯が流れ続けているところです。循環ではなく、自然のままに流れている“生きている温泉”だと思います。

登山体験から見つけた“エクストリーム温泉”という視点
ーーこのコンセプトはどのように生まれたのでしょうか。
渡邉社長:もともと登山をしていて、山の中にある温泉を探す中で生まれました。人が簡単には行けない場所にある温泉に惹かれていった流れです。
ーー“エクストリーム温泉“という言葉の意図は何ですか。
渡邉社長:情報が溢れている中で、ただの“温泉“では埋もれてしまうと感じました。そのため、体験として尖らせる必要があると考え、この言葉にしました。

地域の未来に残すための観光のかたち
ーーこのロッジの役割をどう考えていますか。
渡邉社長:これからの旅行は、場所を巡ることではなく体験そのものを目的にするものになっていくと思います。ここはその“体験そのものが目的になる場所”でありたいです。
ーー最後に、このロッジを通して実現したいことを教えてください
渡邉社長:子どもたちがこの地域で生きていきたいと思える場所にしたいと思っています。観光業が産業として成立すれば、この地域は100年、200年先の財産になるはずです。

登山という個人的な体験から始まった出会いは、休業していたロッジの再開へとつながり、沼尻高原ロッジという新たな形になりました。
自然のリズムに戻る空間設計、地域に根ざした食、そして源泉そのものの力を活かした温泉体験。それらが重なり、この場所は単なる宿泊施設ではなく“土地そのものを体験する場所”として再構築されています。
そこには、過去の記憶を受け継ぎながら、未来の観光のあり方を問い直す静かな挑戦が息づいているでしょう。