静岡県の中央部、大井川の上流に位置する「寸又峡(すまたきょう)」。ここは、かつて林業や電源開発で栄えた活気が失われかけた時、一人の男の「執念」によって温泉街へと生まれ変わった歴史を持つ地です。その中心に佇む「翠紅苑(すいこうえん)」は、昭和37年の創業以来、この地のシンボルとして多くの旅人を迎えてきました。
今回は、町に温泉を引き、温泉街の礎を築いた初代の想いを受け継ぐ支配人 羽根田善弘さんに、宿の成り立ちや「大正ロマン」をテーマにした空間づくり、そして「美肌の湯」の魅力についてお話を伺いました。

翠紅苑支配人 羽根田善弘さん
自費で山を掘り続けた「開祖」の物語

羽根田さん: 寸又峡温泉の歴史は、実はうちの先代(初代)であるおじいさんから始まっているんです。かつて上流の湯山集落には温泉がありましたが、ダム建設の影響で水脈が断たれ、出なくなってしまいました。さらに高度経済成長期にダムの無人化が進み、人が減っていく中で、先代は「町を賑やかにするには温泉しかない」と立ち上がったんです。
ーー自らの力で温泉を掘り始めたと伺いました。
羽根田さん: はい。昭和32年から、スポンサーもいない中で自費を投じて山を掘り始めました。資金繰りに苦労しながらも、大井川鐵道などの助けを得て、同年12月についに温泉が湧き出したんです。その後、温泉の権利を町に無償で譲渡し、昭和37年に5軒の宿でスタートしたのが今の寸又峡温泉です。まさに、この町そのものを作ったのが翠紅苑の原点なんですよ。
「大正レトロ」が織りなす非日常

ーー館内に一歩足を踏み入れると、非常に趣のある空間が広がっていますね。
羽根田さん: 今の建物は平成元年に建てられたものですが、その際のテーマが「大正レトロ・大正ロマン」でした。都会から来られるお客様に、どこか懐かしい「郷愁」を感じていただきたい、心豊かな気持ちになっていただきたいという想いが込められています。

ーー和洋折衷のモダンな雰囲気も人気だとお聞きしました。
羽根田さん: そうですね。他にはなかなかない独自の建築スタイルが、幅広い世代の方に喜ばれています。また、ロビーや廊下には、かつて行われていた「寸又峡のあかり展」の名残である竹細工の灯火なども展示しており、地域の文化を感じていただけるようにしています。
pH9.1の「とろとろ」の湯

ーー温泉の泉質についても、非常に定評がありますね。
羽根田さん: 「単純硫黄泉」なのですが、pH値が約9.1と非常に高いのが特徴です。入った瞬間に肌がスベスベして、まるで石鹸水に浸かっているような感覚になりますよ。このお湯を目当てに、遠方からわざわざ足を運んでくださる常連さんも多いんです。

ーーお庭や周囲の自然環境も素晴らしいです。
羽根田さん: 窓から見える深い緑や、川のせせらぎ、そして野鳥のさえずり。都会の喧騒を離れ、自然の音に癒やされながら目が覚める贅沢を味わっていただけます。近くには「夢の吊橋」や「奥大井湖上駅」といった絶景スポットもあり、日帰りの若い方から、静かな滞在を望むご年配の方まで、多くの方に楽しんでいただいています。
「山の幸」を貫くこだわり。地産地消の寸又流料理

ーーお料理について、特に大切にされていることは何でしょうか。
羽根田さん: 私たちはあえて「海の魚は一切使わない」というこだわりを貫いています。マグロなどは出さず、虹鱒(ニジマス)や鮎といった川魚、そして地元の山菜を中心とした献立です。静岡県内の食材にこだわり、地産地消で健康的なメニューを提供しています。海外のお客様も、この日本らしい食事を「美味しい」と喜んでくださるのが嬉しいですね

ーー最後に、これからの翠紅苑、そして寸又峡への想いを聞かせてください。
羽根田さん: 時代の変化とともに後継者問題など難しい面もありますが、この素晴らしい自然環境と、先代が遺した温泉という遺産を大切に守り続けていきたいです。これからもお客様一人ひとりに真摯に向き合い、この場所を愛してくださる方を増やしていきたいと思っています。

川のせせらぎと野鳥の声が心地よく響く「翠紅苑」。初代の情熱が掘り当てた「美肌の湯」に身を沈め、大正ロマン漂う空間で過ごすひとときは、慌ただしい日常で忘れていた心のゆとりを取り戻させてくれます。寸又峡という深い渓谷に抱かれ、歴史と自然が調和するこの宿には、時代を超えて愛される「本物の癒やし」が息づいていました。
翠紅苑
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