三重県伊賀市。かつて忍びの里として歴史に名を刻んだこの地に、今、官民連携による新たな息吹が吹き込まれています。その中核を成すのが「伊賀市にぎわい忍者回廊整備事業(PFI事業)」であり、その象徴的な拠点として誕生したのが伊賀流忍者体験施設『万川集海(ばんせんしゅうかい)』です。
このプロジェクトは、巨匠・坂倉準三が設計した旧市庁舎(市の指定文化財)を、図書館やホテル『泊船(はくせん)』、観光案内所を擁する「Hokusen(北庁舎)」として再生させ、新設の忍者体験施設と連携させることで、まち全体に回遊性を生み出す壮大な試みです。特に「Hokusen」のライブラリー閲覧室は、かつての市議場を活かした「船底」のような意匠が残るなど、モダニズム建築と現代の知性が交差する空間となっています。
本記事では、350年の時を超えて語り継がれる忍術の神髄を、五感で体験できる本施設のユニークなコンセプトと、その裏側に込められた情熱を解き明かします。

万川集海の吉綱利明さん。
伊賀市にぎわい忍者回廊整備事業に携わり、忍者の里である伊賀の魅力を発信すべく奮闘されています。
忍術書『万川集海』を現代に蘇らせる。45種類の「生き延びる知恵」
ーー本日は貴重な体験をありがとうございました。伊賀のまち全体が、歴史と現代を編み込むように「忍者」を再定義している様子に圧倒されました。まずはこの施設の核となるコンセプトから教えてください。
吉綱さん:ありがとうございます。当施設の名称である『万川集海』は、延宝4年(1676年)に記された実在の忍術書から名付けました。これは伊賀と甲賀の忍びが、長年培ってきた技術や知恵が霧散することを恐れ、後世のために編纂した350年前の叡智の結晶です。私たちは、巷に溢れる漫画的なフィクションではなく、この書物に記された「本物の忍術」を正しく伝えることを使命としています。
ーーフィクションではない「本物」とは、具体的にどのような違いがあるのでしょうか。
吉綱さん:忍術の本質は、派手な立ち回りや戦闘にあるのではありません。その根底にあるのは、いかに過酷な状況下で「生き延びるか」という生存の知恵であり、姿を消して任務を完遂するための高度な隠密技術です。当施設では書物から45種類の術を抽出し、影の中に生きる者たちが頼った「生き抜くための術」を身体感覚として学んでいただけるように構成しています。

専門家たちが知恵を絞った開発秘話
ーー体験の舞台となる「魔堅窟(まけんくつ)」に足を踏み入れた際、その構造の複雑さに驚きました。単なるアトラクションの枠を超えていますね。
吉綱さん:魔堅窟は、1階から4階までの吹き抜けを貫く、垂直の洞窟空間です。内部には幾つもの隠し部屋が配置され、一歩ごとに異なる忍術を体験していく仕組みになっています。この空間を実現するために、専門のデザイナー、忍者施設のマネジメント経験者、そして『万川集海』を熟知した学芸員が一堂に会し、気の遠くなるような時間をかけて議論を重ねました。
ーー完成までには相当な苦労があったのではないでしょうか。
吉綱さん:おっしゃる通りです。建設時期が世界的な物価高騰と重なったことに加え、この複雑怪奇な立体構造を法律上の基準に適応させることは、至難の業でした。何度も設計を練り直し、多くの事業者の協力を得てようやく辿り着いた「執念の結晶」とも言える空間です。

棒手裏剣と地球を感じる「方角術」
ーー45種類の術の中でも、特に人気のある体験を教えてください。
吉綱さん:まずは「手裏剣投げ」ですが、当施設では他所では滅多に体験できない「棒手裏剣」を扱っています。そして、特に海外のお客様が驚かれるのが「方角術」です。
ーー「方角術」……、どのような体験なのですか?
吉綱さん:水に針を浮かべることで、地球の磁力を利用して北を知るという、極めて科学的な術です。これらは単なる仕掛けの説明に留まりません。案内役である「師範」が同行し、当時の忍びがいかにして自然の理を読み解き、地球そのものの力を利用して隠密行動を行っていたかという歴史的背景を解説しながら進めていきます。

師範たちの日常と修行:知識を継承し、伝える覚悟
ーー案内してくださる師範の方々の立ち居振る舞いや、解説の深みにも感銘を受けました。
吉綱さん:ありがとうございます。当施設の師範たちは、学芸員の徹底的な指導のもと、日々研鑽を積んでいます。単に術を実演するだけでなく、忍者の歴史や精神性を正しく伝えるための「知の継承者」としての自負を持っています。知識の習得はもちろん、忍びとしての動作や気配の消し方など、日々の修行を通じて「本物の忍者とは何か」を体現しようとする彼らの情熱こそが、この施設の質を支えています。

特注土鍋と地酒で癒される「隠れ宿」
ーー忍者体験の熱狂を冷ますための宿泊施設「陰陽宿(おんみょうじゅく)」も非常に趣がありますね。
吉綱さん:コンセプトは文字通りの「隠れ宿」です。外から見るとどこに入口があるのか分からない、忍びの住処のような複雑な造りにこだわりました。体験で心地よく疲れた身体を、伊賀の豊かな食と湯で癒していただく場所です。
ーー特にお料理のプレゼンテーションが印象的でした。
吉綱さん:食は伊賀の誇りです。伊賀牛、伊賀米、そして豊かな地酒を揃えています。特にこだわったのは、アドバイザーと共に伊賀焼の窯元へ特注した「オリジナルの土鍋」です。伊賀の土が持つぬくもりを感じながら、サウナや露天風呂で心身を解放する。まさに五感で伊賀に没入する時間を過ごしていただきたいと考えています。

岡山からの移住者が語る伊賀の魅力と展望
ーー吉綱さんは岡山から移住されたと伺いました。このプロジェクトに懸ける想いをお聞かせください。
吉綱さん:私が所属する会社は、PFI事業の提案段階からこのプロジェクトに深く関わってきました。企画立案から運営まで一貫して携わっており、私自身、この美しい城下町の街並みに惚れ込んで移住を決意しました。外から来た人間だからこそ見える伊賀の唯一無二の魅力を、いかに磨き上げるかを常に考えています。
ーー今後の展望はどう描いていますか。
吉綱さん:今後は、さらに「マニアックな深み」を追求していきたいですね。言葉の壁を越え、身体体験を通じて忍者の真髄を理解し合えるような、世界で唯一無二の聖地にしたい。表面的な忍者の消費ではなく、伊賀の歴史、文化、そして坂倉建築のモダンな美しさが融合するこの場所から、新しい地域の価値を発信し続けます。

坂倉準三が残したモダニズム建築「Hokusen」が市民の手で守られ、そこに『万川集海』という歴史的叡智が組み合わさる。このプロジェクトは、単なる観光施設の枠を超えた、地域の魂を未来へ繋ぐための「官民連携の結晶」で した。
岡山から移住し、伊賀の美しさに人生を託した吉綱さんの情熱。そして史実を重んじる学芸員と師範たちの矜持。それらが複雑な「魔堅窟」の構造のように重なり合い、伊賀の地に新たな伝説を刻もうとしています。本物の忍術とは、生き延びること。その知恵を学ぶ体験は、現代を生きる私たちにとっても、確かな指針となるに違いありません。

インタビュアー:大﨑庸平
