インタビュー

【三重・伊賀】日本初の公共図書館併設ホテル「泊船」。坂倉準三のモダニズム建築と「言葉の湖」に集う人々の物語

三重県伊賀市。忍者の里として、また松尾芭蕉生誕の地として知られるこの街に、世界でも類を見ない「再生建築」の象徴が誕生しました。日本初の市立図書館併設型ホテル「泊船(はくせん)」です。

このホテルの母体は、モダニズム建築の巨匠・坂倉準三が設計した旧伊賀市庁舎。一時は取り壊しの危機に瀕しましたが、この建築を愛する市民たちの熱烈な保存運動が行政を動かし、官民連携(PPP)による再生が実現しました。現在は1階に「伊賀市立上野図書館」、2階に全19室のホテルを構え、地域の記憶を未来へと繋いでいます。

今回は、開業前からこのプロジェクトに携わる支配人の細川さんに話を伺いました。名建築の中に宿る「人間のための」思想、そしてホテルという枠を超えて街全体へとゲストを誘う、細川さんの情熱に迫ります。

大﨑 庸平

株式会社 Hinotori 代表取締役

大﨑 庸平

地域観光と地域旅館が好きで株式会社Hinotoriを起業しました。以前は株式日本ユニストにて熊野古道の宿「SEN.RETREAT」を立ちあげ集客していました。「地域のまごころが報われる世界を創る」をミッションに旅館と地域観光を盛り上げたいと思っています。以前は屋内型テーマパークSMALL WORLDSやアートアクアリウム美術館の立ち上げに参画してマーケティングをしたりとマーケティング畑が長いです。新卒ではPwCコンサルティングに所属しておりました。

http://hinotori-trip.com/media

三重県伊賀 泊船。

松尾芭蕉生誕の地で、伊賀の風土と歴史を堪能できる宿。日本初の市立図書館併設型ホテルとして人気です。

坂倉準三の思想と、解体の危機を救った市民のドラマ

――日本初の市立図書館併設ホテル。非常に挑戦的な試みですが、この場所が「市民の力」によって守られたという背景には、建築への深い愛着を感じます。

細川さん:そうですね。ここはかつての市庁舎ですから、市民の方々にとって人生の節目を刻んできた、極めて思い入れの深い場所なんです。一度は解体が決定しましたが、「この建築を失ってはいけない」という市民の声、そして保存運動の熱量が行政を動かし、再生へと舵を切ることになりました。その想いがなければ、今こうしてお客様をお迎えすることは叶わなかったでしょう。

――坂倉準三氏が掲げた「人間のための建築」という思想は、再生にあたってどのように引き継がれたのでしょうか。

細川さん:坂倉さんのモダニズム建築は、外と内が自然に繋がり、そこに集う人の動きを優しく包み込むような動線に特徴があります。今回の改修設計を担当した「MARU.architecture」は、坂倉さんの設計した力強い骨格を尊重しながら、現代の感性で見事にアップデートしてくれました。私が初めてこの建物を見た時、その圧倒的な存在感とポテンシャルに震えるような感覚を覚えたのは、時代を超えて響く「人間のための」心地よさが、至る所に息づいていたからだと思います。

元市長室で眠る贅沢と、廊下に響く「家路」のメロディ

――「元市長室」をスイートルームにするという発想もユニークですね。

細川さん:はい、実際に市長室だった空間をそのまま客室にしています。隣の秘書課だった部屋と合わせてスイートを構成しており、入口には当時の「市長室」という表示が今も残されています。当時の市長と同じ動線を通り、重厚な扉の枠をくぐる体験は、宿泊者にとって特別な時間になるはずです。実はこの扉枠、工事の際に一度すべて取り外し、大切に保管してから元の位置に寸分違わず復元しているんです。当時の間口や質感を残すための、再生建築ならではのこだわりですね。

――先ほどから館内に流れているドヴォルザークの「家路」も、どこか懐かしい響きです。

細川さん:これは旧市庁舎時代から続く伝統なんです。毎日18時になると流れるのですが、実はホテルが市から運用を代行しているんです。機械室に設定があり、稀に違う曲が流れてしまうと、私たちが慌てて機械室へ走って直すこともあるんですよ(笑)。非常にアナログで人間味のある光景ですが、これも官民連携施設としてのユニークな側面です。

――宿泊者がこのメロディを聴くのに、最適な場所はありますか?

細川さん:特におすすめなのは2階の廊下、かつての売店や裏口があった付近ですね。ちょうど客室18番の真下あたりで、最も美しく響くと言われています。18時が近づくと、宿泊者の皆さんがまるで打ち上げ花火を待つような面持ちで廊下へ集まってくる。そんなノスタルジックなひとときも、泊船の大きな魅力です。

「言葉の湖」に錨を下ろす、泊船という名の由来

――「泊船」というネーミングには、伊賀の歴史と風土が多層的に織り込まれているそうですね。

細川さん:伊賀は松尾芭蕉の生誕地であり、彼にゆかりのある言葉に「泊船」の字が使われていることが由来の一つです。そしてもう一つ、地質学的な背景も関係しています。かつて約400万年前、琵琶湖はこの伊賀の地にあったと言われているんです。

――「太古の湖」と「芭蕉の言葉」が繋がるわけですね。

細川さん:ええ。階下の図書館を「言葉が詰まった湖」に見立て、そこに浮かぶ船としてこのホテルを位置づけました。旅人がこの場所に錨(いかり)を下ろし、静かに言葉の海を漂う――そんな滞在をイメージしています。象徴的なのは、かつての議場を再現した図書館の閲覧室です。天井は老朽化のため一度撤去されましたが、当時の意匠を忠実に再現しており、見上げるとまるで「船底」の中にいるような感覚になります。客室には「言葉の家」さんによる選書も用意しており、図書館との繋がりを感じながら自分だけの物語に没入いただけます。

雨の日が待ち遠しくなる、ガーゴイルと巡るツアー

――宿泊体験をより深めるための、特別なコンテンツについても教えてください。

細川さん:宿泊者の約9割が参加される「館内案内ツアー(14時/16時)」が非常に人気です。参加費は1,000円ですが、オリジナルの泊船バッジとお水が特典として付きます。建物の外周から内部の歴史的意匠までを巡るツアーは、建築好きの方にはたまらない内容だと思います。

――雨の日の景色が、むしろ宿泊者に喜ばれているというのも興味深いです。

細川さん:坂倉準三さんの設計の粋を感じるのが、中庭にある「ガーゴイル(雨どい)」です。通常、雨どいは隠すものですが、あえてそれを見せる設計にすることで、雨の日をポジティブに捉える情緒が生まれています。雨どいから水が滴る景色は本当に美しく、雨の日に当たったゲストが「今日はラッキーだった」と仰ってくださることもあるほどです。また、地域の語り部の方々と歩く「城下町巡りツアー」なども企画しており、ホテルを出て伊賀の歴史に触れる体験もご用意しています。

「脂が飲める」伊賀牛と、まちへ踏み出す第一歩

――伊賀での「食」の体験について、細川さんご自身が驚かれたことはありますか。

細川さん:私は外から来た人間なので、伊賀牛を初めて食べた時の衝撃は忘れられません。実は脂身が少し苦手なのですが、伊賀牛は「この脂なら飲める」と思うほど新鮮で、全く胸焼けしなかったんです。伊賀牛は地域外にはあまり出回らない非常に希少なもので、この鮮度は地元でしか味わえない贅沢ですね。他にも、パッションフルーツなどの意外な名産品もあり、食の奥深さは底知れません。

――そうした地域の魅力を、ホテルの中だけに閉じ込めないのが「泊船」のスタイルなのですね。

細川さん:その通りです。私たちは、ここを単なる宿泊施設ではなく、伊賀のまちを楽しむための「第一歩」の場所だと考えています。お客様の好みに合わせて「あそこのお店のこれが美味しいですよ」と提案し、まちへと送り出したい。1階の図書館には市民が集い、2階には旅人が集う。その交差点であるこの場所を起点に、ゲストが「1日では足りない、また必ず来たい」と言ってくださることが、私たちにとって何よりの喜びです。

「私は外から来た人間ですが、もしかすると地元のスタッフ以上に、今の伊賀が好きかもしれません」

細川さんが最後に漏らしたこの言葉に、プロジェクトの核心が詰まっている気がしました。市民の記憶が刻まれた坂倉建築を、過去の遺物として保存するのではなく、旅人が錨を下ろす「生きた船」として動かし続けること。その真摯な情熱が、かつての市庁舎に新たな息吹を吹き込んでいます。

「泊船」は、市民の誇りと旅人の発見が交差する、伊賀の新たなランドマーク。この「言葉の湖」に浮かぶ一艘の船に身を委ねてみれば、きっとあなたも、一晩では語り尽くせないこの街の深みに魅了されるはずです。

インタビュアー:大﨑庸平