
この一枚の絵を見たことはあるだろうか。
もしあなたが日本の歴史や浮世絵が好きなら、一度は目にしたことがあるかもしれない。これは江戸時代、多くの旅人が歩いた東海道五十三次を描いた一枚である。約200年前、日本人はこの道を何日もかけて歩き、宿場町で休み、その土地の料理を味わいながら旅を続けていた。
しかし、この絵が描かれた風景は、過去のものではない。
実は今でも、その旅の空気を感じられる場所が静岡に残されている。
今回私が訪れたのは、東海道五十三次の宿場町として栄えた興津、そしてその歴史を今へ受け継ぐ割烹旅館 岡屋である。
海を望む港町を歩き、江戸時代の旅人に思いを馳せ、歴史ある宿で一夜を過ごす──。
この旅は、単なる宿泊ではなく、「東海道を旅する」という特別な体験そのものだった。
10:00|東海道を歩き、宿場町・興津へ向かう
今回の旅は、静岡駅から始まる。
静岡駅からJR東海道本線に乗り、およそ15分。興津駅へ向かう道中、車窓には駿河湾やのどかな街並みが広がり、都会の景色が少しずつ穏やかな港町へと変わっていく。岡屋へ向かう前に、まずはこの土地の歴史を知るため、清水港と東海道五十三次ゆかりの地を散策した。

海外では、日本といえば新幹線や東京・京都を思い浮かべる人が多い。しかし、それより何百年も前、日本人の旅を支えていたのが東海道である。江戸と京都を結ぶこの街道には53の宿場町が設けられ、旅人たちは数日から数週間かけて歩きながら日本を横断していた。
その宿場町のひとつが、ここ興津宿である。目の前には駿河湾が広がり、少し歩けば東海道の歴史を感じさせる街並みが今も残っている。派手な観光地ではない。しかし、実際に歩いてみると、どこか時間がゆっくり流れているような空気があり、「昔の旅人もこの景色を眺めながら歩いていたのだろう」と自然に想像が膨らんでいく。

そんな東海道の歴史に触れたあと、徒歩で岡屋へ向かう。宿までの距離は約10分。歴史ある宿場町を歩き、その流れのまま暖簾をくぐることで、この旅は単なる宿泊ではなく、「東海道を旅する一日」へと変わっていった。
14:00|岡屋へチェックイン
清水港で駿河湾の景色を眺め、東海道五十三次の宿場町・興津を歩いた後、今回宿泊する割烹旅館 岡屋へ向かった。海沿いからは徒歩10分ほどとアクセスも良く、歴史ある街並みを散策しながら向かうにはちょうど良い距離である。
江戸時代、多くの旅人がこの町で足を休め、翌日の旅へ備えたという歴史を知ったばかりだったからだろうか。岡屋へ近づくにつれて、「今日はただ泊まるだけではない」という不思議な高揚感があった。
まず目に入ったのは、手入れの行き届いた庭と、風に揺れる暖簾。広々とした駐車場の奥に佇む建物は派手さこそないものの、落ち着いた品格があり、旅館というよりも歴史ある割烹料亭を訪れたような雰囲気だった。興津宿の街並みを歩いた直後だったこともあり、この建物が何十年、何百年という旅の歴史を受け継いできた場所のように感じられた。

館内へ入ると、スタッフの方が笑顔で迎えてくださり、靴を脱ぐよう案内される。そして驚いたのが、館内すべてが畳敷きになっていたことである。一般的な旅館ではスリッパを履いて移動することが多いが、岡屋では裸足のまま館内を歩くことができる。「歩き疲れた足をゆっくり休めてもらいたい」「日本らしい畳の心地よさを感じてほしい」という想いから、館内を全面畳へ改装したのだという。実際に歩いてみると足裏へ伝わる畳のやわらかさがとても心地よく、移動する時間さえも、この宿ならではの体験になっていた。

そのまま来客用の和室へ案内され、チェックインの手続きをしながらウェルカムドリンクをいただく。この日用意されていたのは、ほんのりとした甘みが感じられる静岡茶だった。最初は少し濃いと感じる味わいだが、グラスに入った一粒の氷がゆっくり溶ける頃に、ちょうど飲み頃になるよう計算されているという。そんな細やかなこだわりに思わず感心してしまった。夏の暑さで火照った体へ爽やかなお茶が染み渡り、旅の疲れがゆっくりとほどけていく。旅を急がせるのではなく、まずは一杯のお茶で心を落ち着かせる。その何気ない時間こそが、この宿らしいおもてなしなのだと感じた。

お部屋|東海道の歴史を感じる、和の空間
客室へ案内され、まず感じたのは、「これぞ日本の和室」という安心感だった。畳の香り、障子から差し込む柔らかな光、無駄なものを置かないシンプルな空間。派手さや豪華さを演出するのではなく、日本旅館らしい落ち着きを大切にした客室である。それでいて館内は隅々まで手入れが行き届いており、清潔感も非常に高い。昔ながらの趣を残しながらも、快適に過ごせる空間になっていた。

そして、この宿ならではの魅力が、東海道をテーマにした客室のデザインである。襖には富士山や東海道五十三次をモチーフにした絵柄が描かれ、それぞれの部屋に異なる表情がある。ただ泊まるだけの部屋ではなく、「興津宿」という歴史ある土地へ来たことを、客室の中でも自然に感じられる工夫が施されていた。

清水港を歩き、東海道の歴史に触れた後だったからこそ、この空間がより印象深く感じられたのかもしれない。観光地で歴史を学び、その続きを宿で味わう。そんな体験ができるのは、東海道の宿場町に佇む岡屋ならではだろう。
部屋でしばらくくつろいでいると、旅の慌ただしさが少しずつ消えていく。窓の外を眺めながら、「今日は良い宿に泊まれそうだ」と思えた瞬間だった。
お食事|一皿ごとに心を奪われる、割烹旅館の真髄
旅館選びで温泉を重視する人も多いだろう。しかし、岡屋に関しては、私は迷わず「料理を目的に泊まりたい宿」だと伝えたい。元々割烹料理店として歩んできた歴史があるからこそ、一皿一皿に料理人の技術とこだわりが詰まっており、食事そのものが旅の目的になる。料理が運ばれてくるたびに次は何が出てくるのだろうと期待が膨らみ、最後までワクワクが途切れることはなかった。
夕食は、襖でゆるやかに仕切られた広々とした会場でいただく。周囲の席との程よい距離感が保たれているため、落ち着いた雰囲気の中でゆっくりと料理を味わえる。割烹旅館らしい上品な空間で、一品ずつ丁寧に運ばれてくる料理を待つ時間さえ、この宿ならではの楽しみだった。

この日のお品書き
- Appetizer: Simmered with rolled yuba, Zibao shrimp, Raw squid Matsumae pickles, Seared bonito
- Shizumae sashimi
- Kuroge Wagyu sirloin sukiyaki
- Shrimp real potato bowl
- Grilled Tilefish with pine cones
- kintoki sweet potato, brush ginger
- Clam rice Pickles and Miso soup
- Sweetness Warabi Mochi

その中でも、特に印象に残った料理を紹介したい。
まず感動したのは、お造りである。口へ運んだ瞬間に驚いたのは、その新鮮さだった。魚特有の臭みはまったく感じられず、ほどよく脂がのった身は驚くほどなめらか。噛むたびに旨味がじんわりと広がり、「これなら一生食べ続けられる」と思ってしまうほどだった。駿河湾に面した静岡だからこそ味わえる、新鮮な魚介の魅力を最初の一皿から存分に感じることができた。
続いていただいた黒毛和牛サーロインのすき焼きも忘れられない。薄く美しく切られた和牛は、火が入ると甘い香りが立ち上り、一口頬張れば口の中でゆっくりとほどけていく。脂は決して重くなく、上質な旨味だけが最後まで心地よく残る。「口の中でとろける」という表現はよく使われるが、この一皿ほどその言葉がぴったりだと感じた料理はなかなかない。
そして今回、初めて味わった甘鯛の松笠焼きも強く印象に残っている。鱗を立たせたまま香ばしく焼き上げる伝統的な調理法で、サクサクと軽やかな食感の鱗と、ふっくらと上品な甘鯛の白身が見事なコントラストを生み出していた。添えられた金時芋のやさしい甘みも絶妙で、派手さではなく、素材の持ち味を最大限に引き出す日本料理らしい繊細さを感じられる一皿だった。
締めのあさりご飯も素晴らしかった。蓋を開けた瞬間、浅利の豊かな香りがふわりと立ち上り、茶碗によそうと惜しげもなく入った浅利が姿を見せる。噛むたびに貝の旨味がご飯一粒一粒へ染み渡り、最後の一口まで箸が止まらない。さらに印象的だったのは料理だけではなく、器や盛り付けへのこだわりである。料理を引き立てる美しい器、季節感を大切にした盛り付け、余白まで計算された一皿。それらすべてが合わさることで、「食べる」という行為そのものが一つの体験へと変わっていた。

岡屋の料理は、豪華な食材を並べるだけではない。静岡の海と山の恵みを、その時期に最もおいしい形で味わえるよう、一皿一皿へ丁寧な仕事が施されている。食べ終えた頃には満腹感以上に、「またこの料理を食べに戻ってきたい」という気持ちが残っていた。料理を楽しむためだけに足を運ぶ価値がある——そう思わせてくれる、まさに割烹旅館らしい夕食だった。
温泉|旅の一日を静かに締めくくる、心地よい湯
温泉好きとして全国各地の温泉を巡っていると、「泉質」や「露天風呂の景色」ばかりに目が向いてしまうことがある。しかし、岡屋の温泉に入って改めて感じたのは、温泉の魅力はそれだけではないということだった。
浴場は決して大きくはないが、清潔感があり、落ち着いた雰囲気に包まれている。白を基調としたタイル張りの浴槽はどこか品があり、やわらかく差し込む自然光が空間全体を心地よく照らしていた。派手な演出はない。それでも、不思議と長く浸かっていたくなる居心地の良さがある。

岡屋で一日を過ごしていると、その理由が少しずつ分かってくる。東海道の歴史に触れ、宿場町を歩き、丁寧に仕立てられた料理を味わう。そんな充実した一日の最後だからこそ、この静かな湯がちょうどいい。旅の高揚感を少しずつ落ち着かせ、心も体もゆっくりと休息へ導いてくれるような存在だった。
私自身、温泉地を紹介することが多いが、温泉には「記憶に残る絶景風呂」だけでなく、「また入りたくなる心地よさ」という魅力もあると思っている。岡屋の温泉は、まさに後者だった。主役として強く主張するわけではない。しかし、旅館で過ごす時間を静かに支え、食事や客室、宿そのものの心地よさをより深く感じさせてくれる。
岡屋の魅力は、一つの要素が飛び抜けているというよりも、それぞれがちょうど良いバランスで調和していることなのかもしれない。この温泉もまた、その調和を支える大切な存在だった。
庭園を眺める、それだけで満たされる時間
お部屋、お食事、温泉以外にも、岡屋にはゆっくりと過ごしたくなる魅力がたくさんある。
中でも印象的だったのが、館内へ入ってすぐ正面に広がる日本庭園だ。客室へ向かう廊下に囲まれるように造られた庭は、宿の中心に静かに息づいており、移動のたびに自然と目が向いてしまう。派手な演出はないが、丁寧に手入れされた木々や石組みが美しく調和し、眺めているだけで心が落ち着いていく。

特に驚いたのは、池の透明度だった。水は驚くほど澄み渡り、その中を大小さまざまな鯉がゆったりと泳いでいる。中には存在感のある金色の鯉もいて、庭全体が大切に手入れされていることが一目で伝わってきた。季節ごとに違った表情を見せるのだろうと思うと、また別の季節にも訪れてみたくなる。
さらに館内には、もう一つ庭を眺めながらくつろげるスペースも用意されていた。椅子へ腰を掛け、宿で用意していただいたクラフトビールを片手に庭を眺める。それだけなのに、不思議なくらい満たされた時間だった。
私がいただいたのは、「インカ帝 IPA」というクラフトビール。暑い中を歩いてきた体には、キンキンに冷えた一杯が格別だった。グラスを伝う冷たさ、最初の一口で広がる爽快な喉越し、そして目の前には緑豊かな庭園。派手なアクティビティではない。しかし、この静かな時間こそが、この宿でしか味わえない贅沢だったように思う。

旅に出ると、「次はどこへ行こう」「次は何を見よう」と予定を詰め込みたくなる。しかし岡屋では、何もしない時間にこそ価値があることを教えられた。美しい庭を眺めながら一杯のビールを味わう。その何気ないひとときが、旅の中で最も心に残る時間になることもあるのだ。
翌朝 8:00|静岡の味覚で、一日の始まりを迎える
翌朝は少し早めに目を覚まし、朝食会場へ向かった。夕食があれほど素晴らしかっただけに、「朝はどんな料理が並ぶのだろう」と自然と期待が膨らむ。
最初にいただいたのは、梅しそを使った爽やかなドリンクだった。ほどよい酸味が朝の体をゆっくりと目覚めさせ、暑い夏の朝にもぴったりの一杯である。
続いて並べられた朝食は、焼き魚やご飯、味噌汁を中心とした王道の和朝食。しかし、よく見ると随所に静岡らしさが散りばめられていた。朝食でありながら炙りサーモンのお刺身が用意され、桜えびを添えた豆腐や、自分で焼きながらいただく静岡名物のはんぺんなど、この土地ならではの味覚が次々と並ぶ。一品一品は素朴でありながら丁寧につくられており、「最後の一食まで静岡を楽しんでほしい」という宿の想いが伝わってくる内容だった。
朝からしっかりとお腹を満たし、「今日も一日頑張ろう」と自然に思える、旅館らしい朝食だった。

10:00|岡屋を後にし、静岡駅へ
朝食を終え、荷物をまとめてチェックアウト。お世話になった岡屋を後にし、静岡駅へ向かう。
東海道の宿場町を歩き、地元の食材を使った割烹料理を味わい、美しい庭園を眺めながらゆっくりと過ごした一泊二日。派手な観光地を巡る旅ではなかったが、その土地の歴史や文化、そして人の温かさに触れられた、とても満足度の高い滞在だった。

旅が終わり、静岡駅へ向かう電車の中で、ふと最初に見た東海道五十三次の浮世絵を思い返していた。
あの一枚は、ただ美しい景色を描いた作品ではなかったのだと思う。
そこには、宿場町で足を休める旅人がいて、その土地の食を味わい、人と出会い、一夜を過ごし、また次の目的地へ歩き出す——そんな「旅そのもの」が描かれていた。
今回の旅も、まさにそうだった。
興津の町を歩き、駿河湾を眺め、岡屋で地元の食材を味わい、美しい庭園を眺めながら静かな時間を過ごす。その一つひとつは決して派手ではない。しかし、その積み重ねこそが、この旅を忘れられないものにしてくれた。
もし静岡を訪れる機会があるなら、ぜひ少しだけ足を延ばしてみてほしい。ガイドブックには載りきらない日本の魅力は、こうした歴史ある町や、一軒の宿で過ごす何気ない時間の中にこそ残っている。
そして旅を終えた頃には、あなたもきっと、最初に見たあの浮世絵を少し違った景色として眺められるようになっているはずだ。
割烹旅館 岡屋
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